感情の器ーエゴの囁きにご用心!2

昨日エゴという名の幻しについて書いた。エゴの囁きにご用心!ー 1

そう、それは幻なのだ。幻想、実体はない。

なのに、簡単に惑わされてそれが自分の本質だと思い込むから厄介なのだ。

だから、良い悪いの判断をせずに客観的であることが大事になってくる。簡単ではないけど、ね。

これは全部繋がってくるから記事も前回からシリーズものになるよ。

今年の4月だったと思う、アトリエYSを主宰されておられる吉田エリさんのカウンセリングを受けた時、感情の器ということを教わった。

その時の覚書をここで改めて書くことした。長くなるけどお付き合いください。

ベン・マイケルセンの「スピリットベアにふれた島」(Ben Mickaelsen ‘Touching Spirit Bear’ )。

偶然目にして手に取ったのは、アトリエYSのワークショップ「Inner ChildからWonder Childへ」に参加した直後のことだった。

父親による長年の虐待、母親によるニグレクト。両親に愛されていないという孤独と恐怖、劣等感、人生に対する無力感と絶望のなかで生きていた15歳の少年ベン。

それらの感情が強大な怒りという生き物になった時、少年は自分の感情をコントールすることが出来ない。そしてそのせいである日、クラスメートに障害が残るような大怪我をさせてしまうのだ。

ベンは、ネイティブアメリカンの知恵であるサークルジャスティス(Circle Justice)という手法で裁きを受け、ビジョンクエストを通して自分と向き合い変わろうとする、深い魂の救済の物語である。

感情は自分自身そのものではない。私達の多くはそこを勘違いする。

でも、ワークショップに参加し、気づいた。

感情は私の一部ではあるけれど、私自身ではない。

感情はただ単に起こるもの、湧いてくるもの。それだけ。感情に良いも悪いもない。

自然に起こるもの。

感情そのものはただの感じ方のバリエーションにすぎない。

だからネガティブな感情を持ったからといって自分を責めることなんかないのだ。

 

感情はただ起こり、私の一部ではあるけど私の本質ではない。

 

客観的であるというのは、感情を感じてはいるけどそれが自分の本質とイコールではないので切り離して考える、という状態だ。ややこしいけど。

 

感情に囚われ落ち込んで、自分を責め無気力になる、というループに陥るのが私の長い間のお決まりのパターンだった。

分かってはいても、いろんなことを試してみてもそこからなかなか抜け出せなかった。

 

感情をただ感じてるなあ、と味わって認めたら、それを入れる入れ物・器をつくってイメージでそこにただ流す、ことを教わった。

そう簡単なことではないけれど、囚われると厄介なものだからこそ、客観的でいられたらずっと楽になる。

 

変化にも進化にも、時間がかかる。

だから諦めないで何度転んでも、何度でもまた立ち上がってそこから始めればいいよ。ね!

 

読んで下さってありがとうございます。

エゴの囁きにご用心!

ここしばらく落ち込んでいた、またしてもエゴの囁きに負けてしまっていた。

サンクチュアリ~Gate 私の立ち返る場所。

今年の私は、年初からずーっと、これでもか~!というくらいに強制的に門が閉まるみたいなことの繰返し・・・

もう完全にわかっているのに、それでもまだ性懲りもなく、言ってみれば誰かが創り出したいわゆる世間一般のまっとうな生き方にしがみつこうとして、その度にバンッ!!という具合に、ハイ、強制終了~!ってな感じで締め出されることの繰返し。

もう本当にいい加減にしろ~!分かってんなら潔くさっさとこっちに飛び込め~ってことだ。

落ち込む必要なんかないのに、そんな時には必ず、トラウマとかDNAに染み込んだ自己否定、罪悪感という名のエゴが、さあ、ここぞとばかりに勢いづき囁き始める。

ああ~、なんてダメな私。

こんなことだからいつまでも一人前になれないんだよ、全く。

ぐちゃぐちゃ言ってばっかで何にも努力してないじゃない、だから何の結果も出せないんだよ!

どうせ誰の役にも立たないダメな奴だし。

そんなこと出来たってそんなの何の役にも立たないじゃん。

とかとか・・・

 

当然落ち込んでいるから、私の中のワンダーチャイルドはすっかりエゴの囁きにやられて、最初は泣いているけど段々とそれを跳ね返す気力もなくなって殻に閉じこもり、終いには無気力に陥りうんともすんとも言わなくなる。

今回も、またエゴの囁きを聞いてしまった。

感情は起こって当たり前、だけど自分自身そのものではない。

私の一部ではあるけど私の本質ではない。

 

そもそも、失敗も成功もないし、いい悪いもない。

何度でも言う。

ただの経験、ゲーム。

なのに、このエゴ、刻印された罪悪感や自己否定というやつは手ごわい。

 

そして思い通りになんかならなくて当たり前!

それが地球、というところらしいし、そんなことそもそもわかって来ている、らしいけど。本当はみんな。

 

苦しむ必要なんかまったくないのだ。

分かっているのに、それでも引っかかってしまう・・・

まあ、それがなくなったら身体を持って生きている意味がない?

それさえも、楽しめってことかあ~。

 

読んで下さってありがとうございます。

本気の紙アソビ

本日の成果。

ヤバい、面白い、わ~い、嬉しい~!

はは~ん、こうするとこうなるのね、じゃあ、こうしたらどうだ?

・・・とかなんとか、独り言ちながら、

秋の夜長に、

虫の声を聞きながら

チョキチョキ、

紙切り、しています。

 

今日も、上手く行ったり 行かなかったり を繰り返して。

同じことをやっても、前とは違う 新しい発見があり。

 

そんな時は、自分を褒めて(だって自分で褒めるしかない)

自分に優しく、労いの言葉を言ってあげる。

 

今日もガンバッタ、オツカレサマ。

アリガトウ。

 

ホンキ ノ カミアソビ、デキル ワタシハ シアワセ ダ。

 

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失敗という結果はないのだ~人生はゲーム

昨日の記事で、インスタレーション設置について思ったような出来にならなかったことを失敗だった、と書いた。

でも、待てよ、と思い直した。(早い!)

未確認飛行物体か⁉  着陸~プシュ~(という音を出すかどうかは分からない)

イメージしたものをかたちにするとき、実際には思ったような結果にならないことはいつだってある。むしろない筈がない。

それは、単に紙の厚みなどちょっとした違いによっても起こるし、そういう時はただ使用するものを変えながらただ試してみるしかない。

それで上手く行くこともあれば、根本的にそもそもその構造ではできない、という場合もある。

でも、結局はやってみないことには分からない。上手く行っていないなら、その原因を探し改良を重ねてより良いものを目指す。

その先に、つまり、結果的としての成功がある、ということでしょう?

だから、そもそも失敗はないんじゃん!と思ったわけです。

単なる過程の出来事、現象。

失敗とか成功、ネガティブとかポジティブ、って

自分で、

勝手に、

そういうふうに定義づけしてるだけだよね?

もちろん、上手く行かなくて悔しいとか、落ち込むとか、は感情としてあって当然だけど、

失敗したからダメ、とか上手く行ったから良い、とかはないってこと。

どっちもただの経験、人生ゲームの過程。

こないだも、書いたばっかりじゃん、

失敗しても、例え上手く行かなくっても、挑戦できるって生きているからこそ。

だから生きてるってありがたい。

泣いたり、困っている自分をも笑い飛ばして面白がることこそ

人生ゲームの醍醐味さ~。

ということで、もちろん続けますよ、より良いものを創り出す努力は。

挑戦できる喜びや楽しみは、最高の生きている醍醐味だし。

今日も私のアートは現在進行形。1ミリでも進化を目指す!

 

今日も読んで下さってありがとうございます。

暗闇にたったひとりの小さな光が灯った

昨日は、切り紙と癒しについて書いた。

最近になって、ずっと休止していたSNSへの投稿も再開したのだけど、今日になってなにが私をそこから遠ざけていたのか漸く気がついた。

2,3日前に明晰な夢をみた。

海外のスーパーで買い物をしてレジで精算する、というただそれだけなんだけど。

そこには、私を刺激して興奮させる、いろんなキラキラしたきれいなかわいいものが売っていた。私は次々に気に入った物をカゴに入れ、ドキドキと満ち足りた気分でレジに進んだ。

清算する番が来たら、キャッシャーの女の人がなぜか一々私に確認するの。

「本当にあなたはこれがいるの?」って。

「えっ⁉」「いるよ!だって気に入ったから」と私(内心、なんでそんなこと一々聞くんだろー?買い物に来てるのに)。

「これもいるの?」

「えっ⁉(また?)だってこんな素敵なの、ここでしか買えないし。」

(なんだか知らないけど、すっごくかわいい刺繍のしてある枕とかも買っている。しかもすごく高い値段がついているのに全く気にしていない。)

そして彼女は聞いた。あきらめの表情で溜息をつきながら。

「この枕は(なんで枕だったのか分からないけど)、すっごく素敵できれい。そしてとても高価。でもあなたは、これがなにで作られているのか知っている?」

「そして本当に買う価値のあるものだと思うの?」

(その時私の目を真っ直ぐに射抜いた、彼女の目を覚えている。)

その瞬間私は、なぜか彼女の言う意味を突然理解した。ハートで。

そして、はっきりと強い意志を持って言ったのだ。

全部要らない

そこで目が覚めた。

(夢と同じ頃、切り紙中にこんなメッセージも。注意深く観察しさえすれば、いつだってこうして必要な布石が敷かれていたことに気がつくもんだよねぇ。)

本当に欲しいものは、自分にしか、分からない。

SNSは、とても便利なツールだ。自分にとって正しい使い方をすれば。

でも、ともすれば、次々と流れている情報や一見キラキラしてみえるものに惑わされて、本当に自分にとって必要なものを見失いがちになる。

自分の軸がしっかりしていないと。

だから、昨日、私に向かって発せられた暗闇に灯った小さな大切な光を、

見せかけのキラキラのなかに、

大して重要でないこととして、

紛れさせてしまうところだった・・・と気がついた。

 

さち先生も言って下さったではないか、

暗闇にぽっ、ぽっと灯をともす人と手を繋いで、その輪を大きくしていくようにって。

ああ~、よかった、気がついて。

だって、これが私のこれからをつくる道。

私にとって大切なもの。

気づかせてくれたKさん、ありがとう。

 

今日も読んで下さってありがとうございます。