自分を癒すということは

自分の内側と取組んでいる。覚悟を持って。

そっちの方が外側を色々いじるよりよっぽど大事!と気づいたから。

現実は心の中の現れだ、という意味が前より分かる。

 

自分で出来ないところは人の助けを借りて。

今、今回やらなければいけない。

それは自分のことであると同時に、自分のためだけではない。

過去生の自分の魂、ご先祖様や広い意味で昇華できずにくすぶっている霊たちの思いを一緒に。

自分を癒す、ということはそういうことだ、と突然気づいたから。

 

アートを通して表現している時、なんでもいい、ダンスでも歌でも。

ハートが感じて自然に涙がこぼれる時、私という身体を通して昇華されているという実感があった。

そうであるならば、私がアートで表現する意味もある、と言える。

目に見えないことだけれど、今それをするのは、とても大事なことだと思っている。

 

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人は想像出来る現実を創造する―エゴの囁きにご用心! 3

エゴについてのシリーズその3。

エゴの囁きにご用心!1  感情の器ーエゴの囁きにご用心!2 感情の器―その2

「内庭~Primavera」あるがままの自分を受容する。

人は想像出来る現実を創造する。想像出来る現実しか創造出来ない、とも言える。

これはお金についてもそう。

当たり前でしょ、って思うかもしれないけど、結局人は自分が見たい現実を生きてるってことで。

ちなみにエンリケ・バリオスさんの「マラビージャ―魂の恋人」は、その辺のところを分かりやすく面白可笑しい物語として書いた名著だ。言わずもがな「アミ小さな宇宙人」シリーズの作者でもある。

だから要は、自分次第なんだよ、っていう話。

え~!違う、こんな辛いこと経験したいなんて思ってないもん!って言うかもしれない。

ワタシモソウオモッテタ。

デモ、ドウヤラソウラシイ。

 

そして人は、経験した範囲でしか物事を想像することが出来ない。

自分はそれを受け取るに値する、と何の疑いもなく心から信じている人は、難なくそれを手に入れる。

そこには何の努力も苦労も要らない。

そしてどうやら、そういう人の周りにいる人にもそれはもたらされる、ということを発見した!すごくない⁉ 伝染するんだよ~。(これは実験する価値あり、と思ってる。)

こないだそういう人を知った。

日がな一日、一見ただ遊んでいるようにしか見えない。嫌なことは一切やらない。

自分の望みに対してとっても忠実で我儘だ。まさしくヒメ!

豊かな富(お金やお金でないものも)を受け取っているのだ。彼女のパートナーは彼女と暮らすようになって以来、それまでにないくらい豊かさを享受しているそうだ。

本人は自分の存在、行動に対してこれでいいのだ~!!と心の底から思っていて1ミリも疑っていない。恐らくそこがポイント。

あるがまま、だ。

だって、え?何で疑う必要があるの?

ない、んだよね、本来。みんなそのまんまでいいし、ジャッジする必要もない。

 

でも、私達のまだ多くは、っていうか私はまだ、100パーセントそう思い切れていない、から。エゴの囁きに囚われてしまう、のだよなあ~。

それではダメ、こうすべき・・・などと言われ続けて育ってきた私(達)は、それが呪縛となって、素直に丸ごとの自分をあるがままで良しとし、何であれ宇宙がもたらす最良のモノコトに値するのだ、ということに自らブロックをかけてしまうから。

でも、もうそんな時代じゃないんだよー。ねえ~。

 

キーワードは、これでいいのだ~!!

 

毎瞬毎瞬、エゴの囁きが聞こえてきたらそう言い続けるのだ。

呪縛を解くおまじないのように。

 

これでいいのだ~!!

言ってみるとハートの辺りがなんかワクワクしない?

 

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感情の器―その2

エゴについてのシリーズ。

エゴの囁きにご用心! 1  感情の器ーエゴの囁きにご用心! 2

今日は、3に行く前に、感情の器その2。

感情の器をたくさん用意して。

孤独や絶望。

恐れ、不安、怒り。

嫉妬も、罪悪感も、自己嫌悪も。

心が揺れる。

それは生きている証。今、この瞬間。

ただ感じて味わって。

そして手放す。

リリース、そして委ねる。感情の器へ。

 

感情の器。

出ていくものと入ってくるもの。

それはゆりかごであり、棺でもある。

それは舟。

記憶と歴史が刻まれた、私の秘密。

時空を超えた、私のすべてを受け止め、宇宙という広い大海を往く。

 

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感情の器ーエゴの囁きにご用心!2

昨日エゴという名の幻しについて書いた。エゴの囁きにご用心!ー 1

そう、それは幻なのだ。幻想、実体はない。

なのに、簡単に惑わされてそれが自分の本質だと思い込むから厄介なのだ。

だから、良い悪いの判断をせずに客観的であることが大事になってくる。簡単ではないけど、ね。

これは全部繋がってくるから記事も前回からシリーズものになるよ。

今年の4月だったと思う、アトリエYSを主宰されておられる吉田エリさんのカウンセリングを受けた時、感情の器ということを教わった。

その時の覚書をここで改めて書くことした。長くなるけどお付き合いください。

ベン・マイケルセンの「スピリットベアにふれた島」(Ben Mickaelsen ‘Touching Spirit Bear’ )。

偶然目にして手に取ったのは、アトリエYSのワークショップ「Inner ChildからWonder Childへ」に参加した直後のことだった。

父親による長年の虐待、母親によるニグレクト。両親に愛されていないという孤独と恐怖、劣等感、人生に対する無力感と絶望のなかで生きていた15歳の少年ベン。

それらの感情が強大な怒りという生き物になった時、少年は自分の感情をコントールすることが出来ない。そしてそのせいである日、クラスメートに障害が残るような大怪我をさせてしまうのだ。

ベンは、ネイティブアメリカンの知恵であるサークルジャスティス(Circle Justice)という手法で裁きを受け、ビジョンクエストを通して自分と向き合い変わろうとする、深い魂の救済の物語である。

感情は自分自身そのものではない。私達の多くはそこを勘違いする。

でも、ワークショップに参加し、気づいた。

感情は私の一部ではあるけれど、私自身ではない。

感情はただ単に起こるもの、湧いてくるもの。それだけ。感情に良いも悪いもない。

自然に起こるもの。

感情そのものはただの感じ方のバリエーションにすぎない。

だからネガティブな感情を持ったからといって自分を責めることなんかないのだ。

 

感情はただ起こり、私の一部ではあるけど私の本質ではない。

 

客観的であるというのは、感情を感じてはいるけどそれが自分の本質とイコールではないので切り離して考える、という状態だ。ややこしいけど。

 

感情に囚われ落ち込んで、自分を責め無気力になる、というループに陥るのが私の長い間のお決まりのパターンだった。

分かってはいても、いろんなことを試してみてもそこからなかなか抜け出せなかった。

 

感情をただ感じてるなあ、と味わって認めたら、それを入れる入れ物・器をつくってイメージでそこにただ流す、ことを教わった。

そう簡単なことではないけれど、囚われると厄介なものだからこそ、客観的でいられたらずっと楽になる。

 

変化にも進化にも、時間がかかる。

だから諦めないで何度転んでも、何度でもまた立ち上がってそこから始めればいいよ。ね!

 

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銀河観音と出会う2~おかえり私~

銀河観音と出会う1 はこちら。その銀河観音に出会ったとき、私は全くその画を買うつもりなどなかった。欲しいと思ったわけでもない。勧められたわけでもない。でも気がついたら私のもとに来ることになっていた。びっくりだ。

そもそも言った通り、あまりにも美しすぎてちゃんと見ることが出来なかったし、来てもらうには相応しいような住まいでもないという思いもあった。実際のお値段だって決断するには勇気のいる価格だ。普段だったら、というかこれまでの私だったら買わなかっただろう。

でもなんだか気がついたらそういうことになっていたとしか説明できない。

それで実は買うことになってしまってから、買ってしまったんだ、どうしよう?と私のアタマの中であれこれ言う声が始まった。

でもこれも、そういう(高価な、美しい、素敵な、とか素晴らしく価値のある良い)ものに自分は値しない、という制限だということに気づいた。

自分のペイできる範囲の最高は求めても、それ以上は最初から望むことさえしない、だってそれ以上いいものなんて思いつきもしないんだから。ゲンジツテキデナイから。

そもそも現実ってなに?ということもあるけど、まずは自分のアタマで考える最高のモノ・コトでさえ、制限でしかないってこと。そして、こういうのもう本当にやめよう、と思った。宇宙が与えてくれるものは想像を遥かに超えているんだから。

私の銀河観音は目を伏せている、半眼のように。どうしてだろうと思ってその表情をよく眺めて考えた。そしてわかった!

目を伏せているのは自分の内面をみているから。彼女は自由が好き。内奥にある本当の自分と繋がって遊んでいる。だから決して孤独ではない。だってその時創造の喜び・愛=宇宙は果てしないから。

彼女はヒメだ。子どものような純粋さを持っている。決して女神や聖母のようにはなれないけど。

そういう風になりたいと思って人と比べ、そうなれない自分に落ち込むばかりだった。今だって気を付けていないとエゴの囁きを聴いてしまいそうになる。でも、どんなにがんばってみたってなれっこない。だってエネルギーの性質が違うんだから。いい悪いではない。そもそも単に性質が違うだけ。そう気がついたらなんだ、そうだったのか~ってすごく楽になった。もう本当にムリは効かない。時代的にも。

そして思った。あるがままの自分で、あんまり頑張ることなく自然にいたら、みんなもっとずっと幸せになれるんじゃないかな。そんな人が増えたら世界はもっと平和になるに違いない。

今が苦しい人もいいんだよ。絶対大丈夫、だってみんなが通る道。だから大丈夫。

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