鏡とナルキッソス

鏡の中に映る自分をはじめて意識したとはっきり思い出せるのは、母の三面鏡のなかである。母の化粧品を興味本位でながめ、そっと自分の顔にさしてすましている自分の顔。ある日そのいたずらを見つかって母に叱られたが、その後もひとりでそっと母の香水や白粉の匂いを嗅ぎながらその三面鏡のなかの自分を覗き込んでいたことを覚えている。何を思ってみていたのだろう、でも自分というものを意識した頃だったのではないかと思う。

鏡は、これまでも作品の中で度々使ってきた。鏡の向こうの世界、はもうひとつの世界。鏡はその境界。ギリシア神話の「ナルキッソスとエコー」もまた、言ってみれば泉が鏡の役割をしている。ナルキッソスは泉に映った自分の姿に恋をし、触れようとすると消えてしまうその姿に狂おしく焦がれた末に、それが決して触れることの出来ない自分自身であることを知り命は果てる。自分の姿というものは自分のものでありながらも決して自分で見ることが出来ない。子供の頃それを漠然と不思議に思ったことがある。鏡の中の自分は、鏡像に過ぎない。叶わない思いに囚われて最後は水仙に化身してしまうナルキッソス。「Error」をテーマにしたブックアートの展覧会への出品作として、今このナルキッソスの世界に取り組んでいる。何かに向かって取り組み始めるとあちこちでキーワードやヒントになるものを見せられる。今日制作中ラジオからは突然「ミラーマン」が流れてきて笑ってしまった。鏡には違いないのだけど・・・。

narポンペイのフレスコ画「ナルキッソス」